横あるき

変なことを書き綴るサイトです。

自分には受験(勉強)アレルギーがあるという話

入試を経て進学することに何かしらのやりがいを見つけられる人にとっては、鼻で笑う話です。

幼少期: お受験

なんかおはじきを箸でつまむ練習とか、「あなたはお友達にこんなことをしました。お友達はどう思いますか?」みたいなお気持ち問題に答えるとかをお受験塾でやっていた記憶がある。

結果

数校受験したけど抽選落ちとか、試験で普通に落ちたりした。公立に進学した。

小学校: 中学受験

お受験で(自分が想像する)両親の期待に応えられなかった気持ちがあったと思うし、自分の姉は中学受験をしたということもあり、塾に通いだした。塾に通いだしてから以下のような変化があった。

生活リズムが崩れた

塾の宿題が(自分にとっては)多すぎて、夜ふかししてもこなせなかった。元々朝が弱かったが、本格的に生活リズムが崩れだして学校に1時間遅刻とかするようになった。

学校の勉強に身が入らなくなった

宿題は(夏休みなど計画性はなかったが)それなりにやる方だったし、学校の授業もそれなりに楽しんでいたが、前述のとおり塾の宿題が多くて学校の宿題に手が回らなくなった。また、塾で先に単元をやってしまうので学校の授業が退屈になった。

塾というものが嫌いになった

他の塾生と週3〜5回すし詰めになって授業を受けたという単純な身体的ストレスもあれば、急にヒステリックを起こす塾講師がいるとか成績の上下動、志望校別の授業で戦力外通告を受けるといった精神的ストレスがあった1

結果

受験で進学先は見つかったが、「これで受験というものから解放される…」と思ったら、今度は6年後の受験に向けてしごかれることが分かり絶望してしまった。入学して3ヶ月程度で精神が駄目になって不登校になり、次の年度で公立に転入した。

中学: 高校受験

不登校をしつつ、毎週謎のおじさん2のところで話をしたり学習支援を受けたり、毎月病院に通ったり担任と2者面談をしていた。担任に「この高校はどうかな?」と勧めてもらったところが昼間定時制の高校だった。

親や謎のおじさんと見学に行ったら、不登校経験に理解のある高校だったり、時間割が柔軟に組めたりすることが分かった。書いていないがこれまでの経験で学校がとても嫌いになっていた中で、その高校は比較的しくみ的にも雰囲気的にも変わった学校で、ここなら行きたいと思った。

結果

受験勉強では親や謎のおじさんの協力もあって、その高校に無事合格して進学することができた。公立の中学校のクラスメイトや校長、教師の方々も私の不登校に理解があってとてもありがたかった。

高校: 大学受験

中学ぐらいから情報科学とか学びたいという気持ちははっきりしていた。高校は数年ぶりに学校に通って授業を受けていたので結構楽しかったのと同時に、学校に通ったり授業受けるだけで結構いっぱいいっぱいだった。これに加えて受験勉強をするのは自分の要領の悪さからはちょっと考えられなかった。

これじゃいかんと思って予備校に通おうとしたこともあったが、全然活用できず通うのが嫌すぎて授業料に見合う使い方ができなかった。

高校の卒業も危うくて1年休んだり、その間高卒認定をとったりもしていた。

大学の選び方

いわゆる大学受験の勉強がもう全然できる兆しがなかったので、まずセンター対策ができない。センター対策ができないので、センター利用もセンター足切りも通る可能性は皆無だった。ので、自分がとれる方法は以下のものだと考えていた。

  1. 通学制私立の一般入試
  2. 推薦
  3. AO
  4. 通信制大学

通学制ではひとつの私立の情報系学部でAOと一般を受験した。そこは一般入試の入試科目に「情報」があったので、受けてみようかなという気になった。

AOは評価書を人に書いてもらう必要があったが、高校生活で学校外で出会った人にお願いすることが出来た。そういう人とのつながりがなかったら、AOの出願は考えなかったかもしれない。

並行して通信制大学をいくつか調べた。サイバー大学とかBBT大学とか放送大学とか。入学相談会とかも行ったんだけど、最終的には入試がなくて一番アカデミックなものが学べそうということで放送大学に出願することにした。

ちなみに浪人するという方法もあったかもしれないけど、予備校に通うことは避けられなさそうだし、予備校に通おうとしても精神的に通えなかったので、自分にとっては選択肢に入らなかった。

結果

通学制大学のほうはAOも一般も落ちて、それは別に良かったんだけど、その年は合否結果を出すのがあまりに遅くて、放送大学の出願期間ギリギリになって放送大学にも入れない可能性があった3

合否結果が分かった日、自分は親と旅行に行っていて、放送大学の入学に必要な出願票は用意していたけど、バカなことに大学入学資格を証明する書類が揃っていなかった。高校で卒業見込証明書を出してもらう日程的余裕はなかった。結果的には奇跡的に高卒認定証明書の写しが代替できることが分かり、姉に家の中で探してもらってコピーしてもらい、姉に出願書類を提出してもらった。感謝してもしきれない…

現在

放送大学では学びたかったことを知識として色々学べているし、通信指導問題や単位認定試験を科目の学習に活かせていて本当に幸せ。

一方で受験という面で人生をふりかえると、高校受験やAOで様々な人に協力してもらえたこと以外は受験絡みでろくな記憶がなくて、完全にアレルギーになっている。大学受験で真正面から克服できるかなということも一時期考えていたが、駄目だった。

なにより中学受験は

  • 生活リズムが崩れた
  • 学校の勉強に身が入らなくなった
  • 塾というものが嫌いになった

全部精神に良くない影響があったし、「勉強」に対する自分の姿勢を今日まで見失うきっかけになったなと思う。

もちろん、もともと私の事務処理能力が低いのが「勉強」できない原因のひとつだったり、そもそも努力が足りないという非難もあって当然な気はする。それでも「勉強」ができないことを冷静に受け止めて改善することは今でも難しいなと思っている。

関連して、親から教育的投資を受けるのに苦痛を感じるようになった。例外なくそうというわけじゃなくて、中高一貫校は中退で入学料とか授業料を無駄にしたし、中学受験塾や予備校や諸々の受験費用はそのお金に見合うだけのことを自分ができたかというと、甚だ疑問というところから来ている。放送大学は授業料を親に出してもらっていて、1単位1単位見合った学習ができていると自分では思っているので苦痛はないし感謝している。

もう自分の人生に受験というフェーズは来ないでほしいと思っているけど、大学院進学とか資格試験とかあるかもしれないし、途方に暮れている。


  1. まあでも授業時間に必ず星新一のショートショート傑作選を朗読してくれる先生とかもいた。中学受験が人生のうちのほんの短い一瞬であることをその先生は教えてくれていた気がした。 [return]
  2. 自由が丘placeというひきこもりや不登校などを対象に、アパートの一室を借りて居心地のいい空間を提供する活動をなさっていた。今はもうない。 [return]
  3. 通学制の方の結果が分かるまで放送大学に出願するのはなんか嫌だった。受験数も少ないのにもう親のお金を捨てるようなことをしたくなかった。 [return]

道端で声を掛けられるのと同じように

知らない人から道端で声を掛けられたら、私に関心があるとは思わない。相手がここがどこか分からなくて声を掛けたのなら、私はここがどこか分かっていて、それを教えてくれることを期待されているんだろう。

ようは何かメリットを与えてくれるとか、目の前に問題があって、それを解決してくれるなら誰でも良いし、誰でも良いからたまたま近くにいた人に声を掛けたんだろうなという想像くらいはつく。

しかし、一度でも会ったことがあるような人に、どんな理由にせよ声を掛けられた時はどうか?どうも私は、私に少しくらいは関心があって声を掛けられた、と錯覚してしまうらしい。

その場合も、何かメリットを与えてくれるとか、目の前に問題があって、それを解決してくれるなら誰でも良いし、誰でも良いからたまたま知っていた人に声を掛けていることは十分にあり得て、でもそれに私は気づくことが出来ないんだなあ…

毎日外で人と顔をあわせるような生活をしていないので、どうも人間関係のイベントを高く見積もってしまうところが自分にはあるみたい。相手に必要なことを必要なだけ返せばいいことなのに、相手は私に少しくらいの関心があると勘違いしてしまうから、関心がある前提でふるまおうとしてしまう。

少なくとも、私はパーソナリティ的なところに関心がないと声を掛けようという気分にならない1ので、ドライというかインスタントに人に声を掛けられる人は、私にとって未知の種族だなと思った。

何が言いたいかというと、そのくだらない勘違いによって生じる、無駄な精神的エネルギーの消費をやめたい。2


  1. 私はまだ人に声を掛ける経験が浅いので、多分の推測がある [return]
  2. 自分ってちょろインなのか?と思ったら、どうもツン期などを経ていないといけないらしいので、そうではなさそう。 [return]

ズンドコベロニティというものを提唱したい

多者間で一義的な言葉にすることができないなら、その言葉を使うのは避けたほうがよい、ということが言いたいんです。

「ズンドコベロンチョ」をご存知ですか?世にも奇妙な物語で草刈正雄さん演じるサラリーマンが、「ズンドコベロンチョ(もしくはズンベロ)」という意味のわからない言葉に振り回される話です。私はいつだかの昼の再放送で観ました。

サラリーマンは最終的に「ズンドコベロンチョ」に振り回されはするのですが、最初のうちは「ズンドコべロンチョ」という言葉を知るために、新聞や辞書、雑誌を読んで意味を知ろうとしています。

「ズンドコべロンチョ」的な言葉である条件について考えてみました。

  1. 少なくとも、自分がその言葉を理解できていないと感じる
  2. 意味を参照しようとしても参照できる媒体がない、もしくは、参照する媒体によって著しく意味が変容する

この両方を満たすものであると考えます。1番目については自分で分かるものですが、2番目についてはケースバイケースで幅があり、なかなかはっきりと当てはまるものではないかもしれません。

例えば、あるコミュニティAとコミュニティBでは、「ズンドコベロンチョ」という言葉の用法が全く違っていたとしても、そのことさえ理解していれば、コミュニティによって使い分けることで問題なく「ズンドコベロンチョ」を用いることができます。

しかし、コミュニティ単位で「ズンドコベロンチョ」という言葉の意味が統一できておらず、会話の中でそれぞれの人間が「ズンドコベロンチョ」に対してバラバラの意味を込めているような状態では、誰も互いに発言の真意を汲み取ることができません。


このように、微妙に該当するレベルの差があるように思いますから、私はある言葉が「ズンドコベロンチョ」という言葉の性質にどの程度近いかを表す言葉として、「ズンドコベロニティ」という言葉を提唱したいと思います。

  • 用法

    • ズンドコベロニティが(ある|ない|存在する|存在しない|高い|低い|上がる|下がる)
    • ズンドコベロニティを(感じる|感じない)
  • 用例

    • その言葉、ズンドコベロニティが高いねえ!
    • あなたの使っている言葉から、高濃度のズンドコベロニティを感じます。

もし自分にとってパッとしない言葉が頻出する中で会話が進んでいて、その言葉が「ズンドコベロンチョ」に置き換えても違和感がない場合、それは「自分がその言葉を理解できていないと感じる」に該当するので、ズンドコベロニティが存在する可能性がある、ということです。

次に、そのパッとしない言葉について、人に聞くなりグーグル先生に聞くなりしたとします。考えられる結果としては、大別して3通りあります。

すぐにはっきりした意味に調べがついた場合

単純に、自分がその言葉の意味を知らなかっただけなので、その言葉についてはズンドコベロニティがない、ということになります。

まったく意味に調べがつかなかった場合

人に聞いてもトートロジーで返されるだとか、グーグル先生で1件もヒットしなかったりするなら、その言葉は完全に「ズンドコベロンチョ」と同じ状態にあると言えます。ズンドコベロニティでは表すことができません。

それ以外の場合

人に聞けば一応の意味を教えてはくれるものの、人によって内容が違うとか、グーグル先生でもヒットするけれど、サイトによって書いてあることが全然違う場合になります。ここから先は、その言葉をある用法で使う人間がどれだけいるのか、用法はどの程度多岐にわたるのか、という要素を鑑みて、ズンドコベロニティが高い、低い、ズンドコベロニティを感じる、感じないと言っていただければと思います。


ただし、別にズンドコベロニティが高い言葉であったとしても、あまり問題のないケースも多々あるように思います。ちょっとした会話で「人生」について語り合ったりしがちですからね(?)。

しかし、それが許されるのは2者間でだけ通じれば良い場合だとか、そもそも意味が通じている必要がないとか、その場で使うだけで、明日同じ言葉を使う予定がない、といった日常生活の1コマに限られます。

ズンドコベロニティが高い言葉を議論のコンテキストに含めて、部外者に議論の内容を理解してもらえる可能性というのは、私の主観ではありますが限りなく低いでしょう。1人でも多く、長期的に認識を共有したいとおもうのであれば、ズンドコベロニティの高い言葉を使うこと自体を避けるべきです。

ちなみに、「自分にとって」の「ズンドコベロンチョ」について説明する、というのは、認識の共有に幾ばくかの貢献はするとは思いますが、主題が「ズンドコベロンチョ」である以上、「他人にとって」の「ズンドコベロンチョ」と衝突することは容易に想像がつきます。説明ができるのであれば、はなからズンドコベロニティの高い言葉を使わなければいいのです。


ここまで言ってしまうと、世の中の流行語とか、新しい概念とか、新語の発生プロセスまで否定しかねませんね。だから、もし今はズンドコベロニティが高い言葉であったとしても、ちゃんとズンドコベロニティのない言葉で定義して、他者に対してもそれを守ってもらうようにしていけば、ズンドコベロニティは下がっていくでしょう。


…「ズンドコベロンチョ」を「ズンドコベロンチョ」で説明することほど、最悪なことはないなあ、と思います。


以上です。突っ込みどころが多々あるかもしれませんが、ズンドコベロニティとその用法について、改良していただける方がおられましたら歓迎します。

最後に、この雑記をするきっかけとなった自分の連ツイを載せておきます。